和州忍辱山円成寺伽藍封疆図
182×197 江戸時代
元禄年間(1688~1704)頃に制作されたもので、本堂、多宝塔、護摩堂、鎮守社、楼門を始め、円成寺庭園や周囲の子院23ヵ寺が、桜花爛漫の春景色の中で描かれています。隆盛を誇った当時の円成寺が偲ばれます。
求聞持虚空蔵菩薩像(左)・
虚空蔵菩薩像(右)
径36 江戸時代(左)・
径30 室町時代(右)
左の作品は、作法に従い百日間で百万遍の真言を唱えると、たいへんな暗記力を授かるという虚空蔵求聞持法の本尊として用いられました。
右は、福徳を得るという虚空蔵法の本尊として使用されたと思われます。
寛遍大僧正尊影
江戸時代
平安時代後期、寛遍(1100~1166)は、京の都で後白河法皇の側にお仕えし、密教の修行僧として世の平安・静謐を祈り、仁和寺大僧正としての要職を歴任されたあと、高野山に上られます。そこで、浄土信仰の聖地であった当山の阿弥陀如来の霊夢をお感じになり、静かに修法するため当山に入られ、真言宗広沢六流の一派である忍辱山流修法を開かれました。そして、一字金輪法を修され、浄土式庭園を整備されました。
金剛界曼荼羅(左)胎蔵曼荼羅(右)
奈良市指定文化財共に220×145 鎌倉時代
後白河法皇の御寄進と伝えられています。
舎利講式 奈良県指定文化財
32.9×361 鎌倉時代
奥書から京都栂尾・高山寺の開祖で、華厳宗の学匠、明恵上人(高弁・1173~1232)が建保3年(1215)正月27日丑刻に完成し、同年二月二日に明恵の高弟喜海が清書したものを、覚能(公卿藤原季能の子)が元応元年(1319)に書写したもの。明恵撰述の舎利講式としては年紀の明らかな最古の一巻です。
梵字法帖 33.8×899.6 江戸時代 巻子装一巻。梵字とは古代インドの言葉サンスクリット語のこと。仏菩薩を表す梵字が書かれた江戸時代の手本書。奥書から寛文9年(1669)4月に僧澄然によって書かれたことがわかります。
和州忍辱山円成寺縁起
29.9×62.8 江戸時代
当山の沿革と、ゆかりの僧侶の伝記を年代順に記したもの。これによれば、当山は天平勝宝8年(756)に聖武天皇の勅願により、鑑真和上とともに来朝した唐僧虚滝和尚が開基し、唐の仏工稽文会、稽首勲が造顕した十一面観音像を祀ったとされています。その後、万寿3年(1026)に命禅上人が中興し、仁平3年(1153)、寛遍上人が忍辱流を立てたことなどが記されています。記述の内容から、寛永元年(1624)以降に編纂されたものだと思われています。
知恩院縁起 三巻 31×518.5(上)・548.5(中)・505(下) 江戸時代 三巻からなる絵巻物。巻頭に著者良助の寛政元年(1789)7月の「自序」がある。序文によると、栄弘阿闍梨が弟子を高麗に派遣し大蔵教を請来した由来を後世に伝える目的で著されたことがわかります。円成寺と知恩院の略史、円成寺の寺観図などに続き、大蔵経請来の物語が描かれています。なお、この時に記された航海日記である「大蔵請来二合船残録」(奈良県指定文化財)も伝存しています。
和州忍辱山円成寺本尊阿弥陀如来霊応記
34.5×1416.5 江戸時代
当山本尊阿弥陀如来の信仰に帰依した16人の僧侶の奇譚や感応の出来事を記した巻子本。
没年の記されたものから見ると、天承元年(1131)に87歳で没したとされる清尊から、寛元3年(1245)に76歳で没した義弁までの114年間の時期の僧たちの話です。「円成寺縁起」とほぼ同時代、慶長17年(1612)頃の作と思われます。